ひろゆき「論破力」にツッコンでみる

『ひろゆき「論破力」は良書なのか?』

ひろゆきの新著である「論破力」が出版された。世に出ている感想を読むと概ね好評のようである。だが、逆にあまりツッコマれていないのも気になるところ。当ブログでは、奇しくも数回前に「ひろゆきの論破方法」について記事を書いたところでもあり、今回はその記事が妥当だったのか検証しつつ、新著「論破力」にツッコミどころがないか探ってみたい。

・なぜ「論破力」は概ね好評なのか。

それは「論破」をポジティブなものとして語っているからだろう。物事を忖度し、空気をよみたがる日本人にとって、「論破」という言葉には、「口が達者な人間が相手をやり込めてしまう」ような、マイナスのイメージがつきまとっているはずだ。だが、ひろゆきの趣旨は、

「論破は相手を打ち負かすものではなく」、「観衆(第三者)を味方につけて」、
「人生を上手く生き抜くための手段」であり、
「新しい知識や知恵を学ぶ」ことにつながる。

という内容だ。つまり、時に「ツマラン喧嘩」のように思われる論破を、「人間関係を有利」にし、「知識を増やせるもの」だとし、読者の視点をポジティブに変えてみせる。ここが痛快な点であり、書評を概ね好評にしている要因だろう。

だが一方でこれこそまさに、自らをポジティブに見せ、「観衆(読者)を味方につける」ひろゆきの巧みな戦略ともいえる。これについては、後ほど詳しく述べたい。

・ひろゆきの論破戦略の検証

以前当ブログでは、ひろゆきの論破戦略として3点を挙げた。

①相手が前提としていること(常識だと思い込んでいること)を否定する。

→「人間は冷静さを失うと、論理的な議論が出来なくなる」ため、「相手の思考パターン」を考えつつ「相手のスキを探る」。

という内容に、①は合致している。(「相手の思考パターン→相手の常識や前提」「スキ→相手の思い込み」と対応が取れる)

②相手の盲点を突く例や知識を提示する。

→「議論はあくまで事実ベース」で行う。

という内容に②も合致している。

③生産的な議論(ディスカッション)によって結論を出すことを目標とせず、あくまで相手の固定観念を覆すこと(ディベート)に徹する。(そのため細かな場合分けや条件を考えず、白か黒かの議論に持ち込む)

→「質問を多用し、「はい」か「いいえ」で答える議論に持ち込む」

という内容は、③の「白か黒かの議論に持ち込む」という点に合致している。

ただ、③の「生産的な議論」より「相手の固定観念を覆すことに徹する」という点は、ひろゆきの、「議論から新しい知識を学び」「相手を負かすのが目的ではない」という主張とずれている。

ここで生まれる新たな疑問は、ひろゆきの議論における「真の目的は何か?」という点である。まずは、ひろゆきへのツッコミから書きたい。

・ひろゆきへのツッコミ

①議論は一対一で行うべきではない。
→新しい知識や知見が欲しいなら、一対一の議論から学ぶことができるはず。(第三者を味方にした上での勝敗にやはりこだわっている)

以前ネットの放送で、「東浩紀さんと議論するとついつい話を聞いちゃうんだよね」とやや不満気なトーンで言っていたが、新しい知識が学べるなら話を聞くのも問題ないはず。

②パソコンを皆持って議論するべきだけど、そうすると議論が面白くなくなる。

→事実ベースで話してこそ「議論する意味があり」「新しい知識も学べる」のなら、目先の面白さより「事実ベース」の議論から「学ぶべき結論」を目指すべきでは。

①②のツッコミから言えるのは、ひろゆきは「観衆」を相当意識しているということだ。「事実ベース」のスタンスも、議論を進めたり、「新しい知見に辿り着くため」というより、「相手のスキ」を突きやすく、「観衆」を味方につけやすいためだろう。

つまり、ひろゆきの目的の中心は
①「面白い議論」で注意を引きつつ
②「観衆を味方につける」ことなのだ。

上記の①②は、ひろゆきがネット配信者であることを考えれば、非常に理にかなっている。読者は「論破力」という本を通じて、ひろゆきの(読者やリスナーを増やす)戦略に乗せられてしまうというわけだ。

一方でこのスタンスは、確かに「人間関係を有利にし」「人生を上手く生き抜く」ことにもつながるだろう。たが、一般的な立場からこれらを応用できる場面は、意外と限られてくる。

なぜなら、人が議論する時は、しばしば「思い入れがあったり」「その人にとって大事な何か」が絡んでいたりするものだ。「相手の思考パターン」や「観衆の捉え方」に合わせて自分をアレンジするのは、ひろゆきのように常に「第三者的に高みの見物を行う」ポジションにいない限り難しい。つまり自分が他人事でいられるような議論に限られてくるのだ。

ひろゆきは首尾一貫して、さながら「面白がりの愉快犯」のようなスタンスを持っている。常に多くの事にアンテナを張り、自分が普段「面白がっている」からこそ説得力もある。ただ、その「高みの見物的な第三者」のスタンスを常に貫き通すのは、やはり特殊な部類に入るだろう。

かくいう自分はどうなのか?正直なところ、ひろゆきは「好き」でも「嫌い」でもない。ただ、「面白い」と思っている。そして、ひろゆきの言動をチェックしたりもしている。

ん? これこそひろゆきの術中に嵌っているではないか…。

 

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