時間の多層性とは? ポップソングにおける時間体験を分析してみる②

『回想と再編成の時間(メタ的な時間)』

今回は、坂本龍一「thatness and thereness」の歌詞をもとに「回想と再編成の時間(メタ的な時間)」について書いてみたい。(前回は、ポップソングにおける時間体験について、「いま・ここ」「リニア(直線的)な流れの時間」の2つの視点から書いた。)

③回想と再編成の時間(メタ的な時間)

thatness and thereness
坂本 龍一
1980/01/01

slow motion , repeat of breaking glass
fear creeping up from behind the sliding into corruption
a train of thought stops all along the way
from start to goal , easy to understand
thatness , thereness ,
a grid of time in view.

deep blue metal undulating rise and fall
we are hiding ourselves
don’t want to see ourselves
but still desire persists for self-injury
through exposure to reality.
thatness , thereness ,
a deep blue rush in time.

この歌詞は元々学生運動の経験を素材に生まれたとされている。次の、

・slow motion , repeat of breaking glass
(スローモーション、割れるガラス)
・we are hiding ourselves
(身を隠す僕たち)

などの部分は、その場面の断片と受け取れる(勿論これ自体が既にメタファーであると捉えてもいいが)。一方、

・a train of thought stops all along the way (思考停止)
・but still desire persists for self-injury through exposure to reality.
(現実に晒される自傷への欲望)

などは、その体験を内省的に振り返っているパートだ。そして、

・thatness , thereness ,
(それであること、そこであること)
・a grid of time in view
(時間の点を通して見る)

は、正にこの歌詞がメタ的な視点によるものだと宣言している。断片的に湧き上がってくる過去の体験たちが、内省的に再編成されていく。そこでは、体験そのものが、または自己の内面自体が、解釈し直され再定義されていく。

坂本が過去の体験に対して何を思い、自己をどう再編成したのか。そのイメージは、解釈を重ね合わせる我々の側に開かれているといえよう。ここでは深入りせず、メタ的な時間体験についての示唆を与えるひとつの例として取り上げたい。

人間は、その場その場の出来事に反応するだけではなく、出来事や自分自身を常に意味づけながら、日々生きている。人間を人間たらしめるような時間体験について、この歌詞は思い起こさせてくれる。

・時間の3分類について

①いま・ここの時間
②リニアな流れの時間
③回想と再編成の時間(メタ的な時間)

本記事では、なぜ上記のような時間の3分類を定めたのか、その理由について書きたい。

人間は複雑な時間を生きている。たとえば今、ある人が「崖の斜面をものすごい速さで滑り落ちている」としよう。その時その人は、①「目の前の岩や窪みをよけつつ」、②「過去の転倒体験や滑走体験を元にに適切な姿勢を保ち」、③「こんな無謀なルートに足を踏み入れた自分の愚かさを呪っている」かもしれない。

その人は同時に3つの時間体験をしている。つまり、①「目の前の出来事に反応し」、②「過去を参照しつつ、近い未来を予測し」、③「自分の人間性について再認識して(あるいは認識を深めて)いる」

それぞれが上記の分類に対応することになるが、当然①~③のそれぞれは互いに関係しており、完全に独立しているわけではない。つまり純粋な「いま・ここ」などは存在せず、①~③いずれも人間は過去の体験を素材に、「いま・ここ」を生き、「未来」を予測し、「過去~未来」に通じる自己認識を深めているはずだ。

この点については、「ゆめラジオ」さんによる次の動画が示唆深い。本記事では、ポップソングを素材に時間を論じてみたが、当然、時間論としての厳密さには欠けている。厳密さを求めるなら、「ベルクソン」についてもしっかり触れるべきだろう。動画は是非参考にしてみて欲しい。

ゆめラジオ「ドゥルーズのベルクソン論」

「Thatness and thereness」においては「a grid of time~」という表現も示唆的だ。時間は連続するものであり、無限という概念とも関わる非常に捉えにくいもの。一方で人間の認識は、時をgridとして、つまり空間的・断片的にしか捉えられないのか、そんなことも想起させる。

シティポップに端を発した「時間論」。哲学的な視点では、まだまだ掘り下げが浅いかもしれない。本記事では、「時間」という捉え難い概念を、様々なコンテンツと絡めて考えてみることで、人間というものが浮かび上がってくれば非常に興味深いのではないか。そんなことを考えて書いてみました。

 

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“時間の多層性とは? ポップソングにおける時間体験を分析してみる②” への2件の返信

  1. それであること、むこうであること。これでなく、ここでないこと。それとこれ、むこうとここ、この二つを結びつけるものこそ、持続。その枠ぐみは、時間。ドゥルーズが言うように、時間は一つでしょう。

    1. コメント有り難うございます。

      それであること、それでないこと、の違いは示唆深いですね。人間は生きていく上で、ものの同一性を認識していく。そしてそこに差異を見出すと、世界(存在)が更新されていく。そこで興味深いのは、やはりノスタルジー。過去の体験との同一性を認識するやいなや、過去の瑞々しい体験が蘇ってくる。

      どんな体験が更新という風化を免れて、ノスタルジー性を帯びてくるのか。時間は一元的だとすれば、時間そのものを論じるよりも、そこに立ち現れる経験や感覚について論じる方が、より人間に近づけるかもしれません。少しずつ考察を進めたいですね。

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