『分かりやすさ』という病
書籍やテレビ、インターネットコンテンツに目をやると、世で「分かりやすい〜」というネーミングが持て囃されていることが分かる。果たして「分かりやすい」ことは「いいこと」なのだろうか。寧ろ「分かりにくい」ことこそ大切なのではないか。そんな素朴な疑問から久々に記事を書いてみた。
きっかけは、以前書いた記事で次のようなコメントを頂いたことです。
———私が違和感を覚えたのは、ひろゆき氏に代表される意見の「思想は個人の見解だから役に立たない」という一側面について、多くの人があまり意味を吟味せずに賛同するケースが多いように感じるからです。
私の返信コメント(抜粋)は、
———世の中では「分かりやすい〜」というものが、あたかも素晴らしいものが如く、持て囃されてます。
一方哲学の議論は、厳密さがもたらす「分かりにくさ」と格闘するようなものといえます。
つまり、「分かりやすさ」を持て囃す人々に、「分かりにくさ」と格闘する文化を要求するようなもので、その本質から哲学は世の中に受け入れられ難いものといえます。
では本記事の方へ。
・「分かりやすさ」はなぜ持て囃されるのか。
理由は難しくない。
①予備知識がない事について、その要点を手取り早く知り
②時間とエネルギーのコストを節約できる
至極真っ当な理由だ。だが、問題はそこではなく、「分かりやすさ」が良いものとして盲信されていることだ。つまり「分かりやすさ」のデメリットについて、世の中ではあまり考えられてないと思われるのだ。
・「分かりやすさ」のデメリットとは
「分かりやすさ」を提供するのは伝え手である。だとすれば、伝え手の意図に基づいて伝える内容が分類・編集されることになる。その際、重要な情報を犠牲にして「分かりやすさ」を獲得する恐れがある。そして、その延長上にフェイクニュース等が生まれてくると考えれば、「分かりやすい」ものに対して、それなりの警戒心を持って臨むことが必要になる。
・本当に「分かる」とはどういうことか
では逆に、「分かる」とは何かについて考えてみたい。ここでは「分かった気になる」ではなく「本当に分かる」ということを対象にする。それはズバリ、「自分の言葉で他人に説明できる」ということではないだろうか。
ある「分かりやすい」ニュースを、受け売りのまま他人に説明したとしよう。ところが、自分にとっては非常に「分かりやすかった」説明が、その相手には全く通用しない。自分とその相手とのバックボーンの違いを考えれば、当然起こりうる話だ。
その際に、相手のバックボーンを考慮して、言葉遣いを変えたり、具体例を変えたり、出来るかどうか。これが、「本当に分かっているかどうか」、つまり「自分のものに出来ているかどうか」を測る指標になるのではないか。「分かりやすい」説明を有難がっているだけでは、中々「自分のもの」には出来ない。
では「自分のもの」にするには何が必要か。それは、誰かにレールを敷いて貰うのではなく自分でレールを敷くこと。その為には、一度「分かりにくいもの」と自分なりに向き合い、「分類」し、「ロジック」を構築しなければならない。
・敢えて「分かりにくい」説明をする
教育においてはどうだろうか。語学等の参考書のタイトルを見ても「分かりやすい〜」という文言が踊っている。入り口としてはそれもアリだろう。でも教える者が全てレールを敷いてしまっては学ぶ者にとって訓練にならない。全てを説明せず、学ぶ者が自分なりにレールを敷く機会を作るべきではないか。つまり、「分かりにくい」ことと自分なりに向き合う姿勢、これこそが学ぶ者にとって最も身につけるべきことなのではないだろうか。
・受験勉強は所詮箱庭だから、安心してこの解法を使え!
(開始後4分から、「所詮入試問題という箱庭の中でしか生きられない解法…」の台詞が聞けます)
この発言は某予備校講師によるものだが、逆説的な意味で面白い。受験生は限られた試験時間の中で、あらゆる解法を試している余裕はないから、迷わず典型的な解法を優先しろということだ。
これは、AIでいうところのフレーム問題の回避のようなもので、その点では受験生にとって優しい発言だ。一方で、「これ以上の奥深い所まで学ぶ必要がない」という発言だと捉えれば、教育者としていかがなものか、ということになる。だが本当にそうだろうか?
結局は受け取る側の問題だろう。「所詮は箱庭に過ぎない受験勉強」という発言を逆手に取り、そこからはみ出る部分を「いつか役立つかも知れない」と考えて学ぶ余裕を持つ。試験が迫っている受験生には酷かも知れないが、心の底に抱いて欲しいスタンスである。
「分かりやすい〜」に毒されている大人たちも同様だ。「分かりやすさ」の背後では何かが犠牲になっている恐れがあり、そのレールは伝達者によって敷かれたものである。何の疑問もなくそのレールに乗るリスクを意識しなければならない。
・人はなぜ学ぶのか
そもそも人は何で学ぶのか。一つは「分かる」ということの気持ち良さだろう。だからこそ「分かりやすさ」に毒されてしまう。そして、それがすぐに役立つのであれば、それで充分だと誤解してしまう。
一方、「分かりにくさ」と向き合って獲得した知にはどんな意味があるのか。それは自分でレールを敷いたものだから、今後使う準備が出来ているということ。ただ、いつ役立つのかわからない。個人的にはこれこそ知の本質かも知れないと思っている。
「分かりにくいもの」と向き合った時に、これは「いつか役立つかも知れない」というアンテナに引っかかるものがある。それを見つけた時に「ワクワク」感が生まれる。それがまた学びの原動力になるのではなかろうか。
・ポピュリズムの時代に
折しもポピュリズムが話題となっている。フェイクニュースという、人の敷いたレールに安易に乗らない、という意味では、「分かりやすさ」を疑うスタンスは役立つだろう。
だがやはり注意点もあるはずだ。知の本質を目指し「分かりにくい」ものと向き合ったとしても、結果的に頭でっかちの自己満足に終始し、何の役にも立たない、なんてこともあり得る。「ワクワク」感を大切にしつつも、自己完結に陥ってはいけない。結局はバランスの問題ということになるのだが…。
———世の中の「分かりやすさ」礼讃が気になり、ちょっと偉そうな物言いで書いてしまいました。読んで下さった方、有難うございます。
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分かる、とはどういうことか? 西洋哲学では、二十世紀の他者論まで、相手は自分と似ていて、自分と同じように考えてる、そんな前提でした。共感の原理、と言われたものです。
けれど、他者は自分とは異質である、と認識されたとたん、共感とは、分かるとは、がテーマになってきました。
言語、論理、そして理性。これらを媒介とする、分かる、には、限界がきているように思われます。
コメント有難うございます。
哲学では「他者論」「間主観性」の議論が、言語学では「自然言語の曖昧性」の議論があるかと思います。
現在のAIの時代では、「分かる」「腑に落ちる」をシミュレート、モニタリングできるようになるかも知れません。そもそもAIは「我々に似ている20世紀的他者」なのか「それを逸脱する何者か」なのか、アレクサを見てふと考えてしまいました。
また記事が書けそうになったらアップしたいと思います。