「ひろゆきはなぜ論破されないのか?」 ひろゆきの論破方法からディベートを考える③

『炎上のメカニズム』

前回は手強い論客であるひろゆきへの反撃方法を通じて、ディスカッションにおける「語義の共有の重要性」について触れた。今回はまず、ひろゆきが持論の不完全さを認めた例を紹介する(原因は、あるワードの定義をツッコまれたこと)。さらに、語義が曖昧ゆえに炎上が起きてしまった、杉田水脈議員の「生産性」発言を通じて、「炎上のメカニズム」について考えてみたい。

・自由意志とは何か(ひろゆきのネット配信)

ひろゆきのネット放送における発言に、「人は自由意志について基づいて行動しているつもりでも実はそうではないのでは?」というものがある。

多くの人は自由意志で行動していると思っていても、「実は社会的に刷り込まれたアルゴリズムに従っているだけかもしれない」というのが、その論点だ。つまり人は、意識的には勿論、無意識的にも「社会規範」に従っているだけというわけだ。

その際ひろゆきは、社会規範を顧みず、当時不適切な女性関係を持って辞職した新潟の某知事を、「むしろ自由意志を発揮している事例」として挙げていた。そこで来たリスナーの反論は、

『新潟の某知事は「社会規範」には縛られていないが、「動物的本能」に縛られているのでは?
むしろ「動物的本能」をコントロールし、「社会規範」に従える人こそが「自由意志」を発揮しているのではないか』

というもの。ひろゆきは「なるほど」と素直に納得し、議論の矛を収めた。つまり、

自由意志の定義が、
①社会規範に縛られないこと
②動物的本能に縛られないこと

のどちらになるかによって、結論が全く変わってしまうわけだ。

ひろゆきの狙いは、「人は社会的アルゴリズムに従っているだけで、自由意志なんて発揮出来ていない」と挑発的な意見を言うことにあったはずだ。だが、ワードの定義(語義)が変わるだけで見事に結論が変わってしまうことに気づくと、あっさり持論を撤回する。これこそが、闇雲に相手を言い負かすことに専念するスタイルではなく、お互いの協働によりディスカッションが成立した例だといえよう。「語義の共有」はディスカッション成立にとって非常に重要だ。

・杉田水脈炎上事件

杉田水脈議員の「LGBTには生産性がない」という発言が炎上したのは記憶に新しい。新潮45の原稿全体の趣旨は別にあり、その中の上記の文言がとりわけ注目を浴びた形だ。だがたとえ一部だとしても、それは充分に炎上を引き起こすだけの必然性がある文言なのだ。

まず「LGBTには生産性がない」と聞いた人は、

①最初にある種の「違和感」を感じ
②次に「納得感」と「不快感」の入り混じったものを感じる

と想定される。(時代の流れとして、LGBT差別に(少なくとも基本的には)反対している層を、便宜上対象とする)

①の「違和感」は、通常「人」に対して「生産性」という言葉は使わないことから生じる。(普通は、人の「仕事ぶり」などに対して使うはずだ)

②の「納得感」「生産性」が「子供を産まないこと」を指すと考えることで生じる。LGBTの人達は基本的には子供をつくらないので、とりあえず「納得」せざるを得ないからだ。

しかし同時に、通常の文脈において、「生産性」は「社会的貢献度」を指すのではないかと気づくと、読者はある種の「不快感」を感じてしまう。つまり、LGBTは「子供を産まない」という反論出来ない事実を盾に、その背後でLGBTの「社会的貢献度」の低さをちらつかされていることに気づくのだ。(たとえ日本の様な少子高齢社会であっても、「社会的貢献」は本来多様な形であるはずだが、LGBTの場合「子供を産まない」という点のみで一刀両断されてしまう。)

・「炎上のメカニズム」を整理する

「生産性」という言葉を通常とは違う文脈で使い、注目を集める

「狭義の生産性(子供を産まないこと)」の背後で「広義の生産性(社会的貢献度)」をちらつかせ、挑発する

③子供を産まないことに対する批判は本来デリケートなものであることや、社会的貢献の多様性の否定は、結局人間の生き方の多様性の否定につながることに(少なくとも薄々と)読者は気づき、「不快感」とともに「炎上」が起こる。

ポイントは、この炎上が「生産性」という「語義の曖昧さ」によって生じている点だ。これは、今まで述べてきた「ディスカッションの不成立」要因と同じであり、「語義の共有」がいかに大切であるかを物語っているといえよう。

・LGBTの生産性について

①のような注目を集める言動は杉田議員のお手の物だろう。だが②の挑発を意図的に行ったとすればタチが悪い。仮に意図的ではなく安易な失言だったとしても、言葉に対するデリカシーに欠けているという点でやはり問題がある。

個人的にLGBTの生産性に対する印象は極めて良い。何故なら、ランボー、コクトー、ジュネなど、印象的な詩人や作家にゲイが悉く多いから。彼らは詩や小説の世界は勿論、映画や演劇、さらには現代思想にも多くの影響を与えている。つまりは一部の狭い世界だけの話ではないのだ。

かつてそれに気づいた時、ある種の衝撃と共に、その理由についても考えてみた。恐らく彼らの持つアウトサイドからの(批判的な)視点が、時に社会にとって何らかの有用性をもたらすのではないか。(今後の流れから、LGBTを社会のアウトサイドではなく社会のインサイドに位置づけたとしても、やはり社会に多様な視点をもたらすことには変わりない。)

詩人や芸術家だけではない。現代コンピュータの祖である、アラン・チューリングもやはりゲイだ。彼の功績の延長上に今のAI時代があるとしたら、彼一人分だけでもとんでもない生産性になるはずだ。(何しろ、今ある仕事の多くがAIに代行されてしまう見込みなのだから。)

それをふまえると、LGBTには生産性がないなどと、おいそれとは言えないのだ。(以上の例が一部の人間の功績だとしても無視できるレベルのものではないし、多様性がもたらす批判的な視点が社会にとって必要であることには変わりない。)

・最後にひろゆきバスターと言えば

そう、前回、前々回でもひろゆき論破の事例を紹介した東浩紀である。ここでは東の近刊である「ゲンロン0 観光客の哲学」を紹介したい。グローバリズムとナショナリズムの交錯する現代に、

「観光客」という、一見思想とは無関係なワードを導入するところで、

読者はまず①「違和感」を感じ、そのココロを読んで②「納得」する。そして「観光客」というメタファーがどこまで腑に落ちるかは③読者の受け止め方次第である。

「ワードを意外な文脈で用い、その語義を拡張すること」「炎上」のみが目的ではない。この著作のように、それが「成功」すれば、有用で興味深いディスカッションが生まれることが、よく分かるはずだ。

 

今回の投稿は、デリケートな話題だけに、長くて読みにくくなってしまったかもしれません。もっと簡潔に、クリアに書ければいいのですが…。次回はもう少し力を抜いて書いてみようと思います。

※ひろゆきの著書「論破力」にツッコンでみる、という記事を書きましたので、よかったら読んでみて下さい。

 

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