「ひろゆきはなぜ論破されないのか?」 ひろゆきの論破方法からディベートを考える②

『ひろゆきへの反撃方法』

前回はメディアにおける様々な討論において、彼特有の論破力を発揮し、多くの論客を困らせる「ひろゆきの論破戦略」について書いた。今回は「ひろゆきへの反撃方法」について述べつつ、(ディベートではなく)ディスカッションという共同作業を成立させる難しさについても触れたい。

・反撃方法

反撃方法は以下の3つである。①はひろゆき(及びディベート)対策だが、②③はディスカッションを成立させるための一般的な方法論ともいえる。

①こちらの「前提や常識を否定する」ひろゆきの主張に対して、真っ向から反撃せずに、一旦付き合う。
→煽りに乗らず冷静さを保つ(譲歩からの反論)

②議論に登場するワードの適用条件を整理し、共有する。
→ある条件では通用しても、別の条件では通用しない議論の確認(ひろゆきの意見の相対化)

③議論に登場するワードの定義(対象範囲)をはっきりさせ、共有する。
→語義が変わると結論が変わる議論の確認(ひろゆきの意見の相対化→反撃事例は③へ

①は作家の東浩紀が、以前「ニコニコ超会議」でひろゆき反撃法として語っていたものだ。当日の現場では、ひろゆきが思想家の東に対し「何で思想書を読むんですか?」「そもそも思想なんて無意味なんじゃないですか?」と、かなり挑発的な質問をしていた。東は「そうかもしれないね」と、ひろゆきにのらりくらりと同調しつつ、スキあらば②③を実行し、最終的にひろゆきに「スッキリ納得しました」と言わしめていた

ここで大切なのは、疑われた自分の立場を下手に保とうとせず、一度相手の目線に合わせることだ。それが出来ず、

・専門用語で固めて自己完結する
・そんなの当然だと上から目線に(或いは意固地に)なり、議論しようともしない

の2パターンに陥いる論客が世にいるが、これこそがまさに、ひろゆきの餌食になる格好のパターンなのだ。例を挙げよう。

・古谷経衡論破事件

「たけしのTVタックル」で、評論家の古谷ネットの素人動画(歌ってみました・踊ってみました等)に対し創造性がないと批判した際、ひろゆきとホリエモンから強烈なWツッコミを喰らった事件。

「それあなたの感想でしょ」「ウソつくのやめて下さい」など、ひろゆきの台詞が轟いた。

これは古谷が、「オリジナルをパクっただけの素人の真似事には創造性がない」という固定観念に縛られ、ひろゆきらとの議論に付き合わなかったのがマズかった。そこで、「オリジナルを利用して新たな価値を産む」DJの様な例を挙げられ、「ネット時代の創造性は今までとは異なる」と切り返されてしまったのだ。

古谷が①相手の目線に合わせ、③「創造性」の語義を相手と擦り合わせる、ぐらいの余裕があれば、何らかのディスカッションは成立したはずだ。ただそれが、TV的に面白いかどうかは別の話だが…。

・東浩紀の反撃例 1

上記の様に「思想は無意味ではないか」と疑うひろゆきは、「日本は無思想でも暮らせる環境条件が整っていた」「日本では、道徳という形で思想や宗教の代わりとなるものが根づいており、その上に外国をモデルとした思想を導入する意味はない」などの論拠を示した。

東は「そうとも言えるね」と受け止めつつ、「今の話は、昔の日本では通用したが近代以降の日本では通用しない話や、日本だけに通用する話と外国と日本両方に通用する話がごっちゃになっている。もう少し腑分けして話そう。」と冷静に切り返す。さすがのひろゆきもここでは反論しない。

ここでは、思想というワードを「いつの時代」において、または「どの国(地域)」において適用するのか、という適用条件②が整理されている。また思想というワードが「広義の道徳・宗教を含む」というように、定義③も概ね共有されることによって、ディスカッションが成立している。

・東浩紀の反撃例 2

「思想が無意味である」ことを示すため、ひろゆきはもう一つの論拠を示す。それは「自然科学や歴史は、それを事実として学んで何かに応用できる知だ。一方思想は、所詮その人の考え方に過ぎず、学んでも意味がない(自己満足に過ぎない)知なのではないか」というもの。

東はそこで、「反復可能な知」と「反復不可能な知」に知のカテゴリーを再分類する。すると
「自然科学」は前者に属する(応用可能性も保証される)が、「歴史や思想」は後者に属する(応用可能性は必ずしも保証されない)ことになり、両者は知の構造が違うと主張する。

その結果、ひろゆきは「自然科学における事実(反復可能)」と「歴史における事実(反復不可能)」が同じ「事実」としてごっちゃになっていたことに気づき、この分類を聞いて「なるほどスッキリした」と納得するのである。結局「思想」はひろゆきの評価する「歴史」と同じカテゴリーに入ることになり、安易な批判は出来なくなったわけだ。

ここでのポイントは、東が「知」というワードの「分類再定義」を行なったことだ。つまりこれもワードの指示対象を定めるという点で、③に属している。実はこの③が共有されることこそが、ディスカッションにおいて大きな役割を果たすことが、ひろゆきの「スッキリしました」という言葉にもよく表れている。

②にしても③にしてもディスカッションする人間の間で共有されることがポイントとなる。それはある種の共同作業だからこそ、お互いの協力が必要となる。だがディベートモードにいると、中々協力態勢に入れない。これがまさに、ディスカッションを成立させることの難しさなのだろう。

次回は、③におけるワードの定義を共有することの重要性に触れ、それが曖昧だったために起こる、炎上のメカニズムについて述べたいと思う。

・関連書籍

 

 

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“「ひろゆきはなぜ論破されないのか?」 ひろゆきの論破方法からディベートを考える②” への8件の返信

  1. 思想家の東氏について気になって調べましたが、一般的なディベートやディスカッションでいう論破の如きの生温い世界じゃ無くて、常に議論が絶えない業界の、その中の修羅の世界の人のようですね。このコラムでは単に思想家とあったからどんな分野の思想家なのか興味が湧いたのですが彼の研究分野や、その広範な内容からして、論破するとか、論破されるなどという薄い価値観とは程遠いです。分野的には、論理的に可能な限り精査して議論をして構築するタイプの学問(哲学や論理学)で、これぞ真骨頂と言うに適したプロです。一般に思想家と呼ばれる人がどんな活動をしてるか知られていないでしょうが、哲学とはその一部に論理学を含み、極めて論理的な側面を持ちますし、展開された論については「個人の見解であるかのような多義性」を極力廃するように展開されます。哲学の目的を考えるならば、ひろゆき氏が納得したような「知のカテゴリー論」もその一つです。言い方を変えれば、哲学ではむしろ伝統的に「納得するとはどういう事か」という事を考え続けているものです。よく哲学は役に立たないなどという批判的意見を聞きますが哲学には色々なカテゴリーがあるし、知の体系化という側面があるし、形而上学と形而下学の最前線という役割もあります。私は、哲学は役に立っているけれども、どう役に立っているか理解されにくい学問だと思います。しかしひろゆき氏が言ったとされる「思想とは個人の見解」という印象とは真逆の性質のものです。

    1. 熱いコメント有難うございます。

      仰る通り、東がひろゆきをいなしながら、最後に納得させてしまうのも、論理の扱いを心得ているが故でしょう。

      ただ哲学の厳密さの過信もまた危険なところです。というのも人が自然言語を扱う以上、厳密な論理が必ずしも通用するわけではないから。これは、ウィトゲンシュタインが「論理哲学論考」で厳密な論理(一対一の写像理論)を提唱した後、「哲学探究」でそれを撤回し、言語ゲーム理論(ゆるやかなルールの繋がり理論)を提唱したのに象徴されます。その後、大陸を中心に展開されたポストモダン思想が結局尻すぼみになってしまったのも、思想=レトリックという罠にはまってしまった側面もあるでしょう。

      東も震災以降、思想=役に立たない言葉遊びにならないよう、特に意識しているように思われます。ひろゆきの、哲学や思想が役に立たない論は軽視できません。哲学の得意とする厳密さは、単に筋が通っているだけの無用の長物にもなりうるからです。思想が個人の見解に陥る可能性も常にあるでしょう。東も哲学の存在意義のデリケートさを分かった上で、その可能性に賭けている筈です。

      また東は、ひろゆきという相手を考慮した上で、何を話すべきかの選択をしたはずであり、相手がいてのディスカッションは繊細な作業を伴うものではないでしょうか。

  2. そうですね。上の指摘は私の意見に対する真っ当な懸念だと思います。自然言語の冗長性を鑑みても私が伝えたかった事に対する指摘としてストレートで、ドンピシャなご意見かと存じます。少なくとも過去の哲学議論の中に、言葉遊びを揶揄される向きはあったと言わざるを得ないと思います。
    私が違和感を覚えたのは、ひろゆき氏に代表される意見の「思想は個人の見解だから役に立たない」という一側面について、多くの人があまり意味を吟味せずに賛同するケースが多いように感じるからです。伝統的に哲学思想一般の目標は、端的に言って(ここでやはり自然言語の限界を感じますが)誰もが納得出来る疑い得ない現象を追求する「指向性」にあるのだと思います。しかし数学や科学の発展に伴ってパラダイムシフトが度々起こる事を経験したり、流行り廃りがある事も事実です。ですが哲学特有の鋭い批判的精神によって、疑い得ないものを抜き出し、その時々における最も信頼に足るパラダイムを取捨選択しようとする生真面目さこそその存在意義だと思っています。特に数学や科学の重要な発見の中にはこうした経験が多いように思われます。

    ところで、全然関係無いのですが最近ディベート合戦でAIが人間のチャンピオンに勝利したというニュースを見た気がします。パチもんのニュースかもしれませんが。これが「強いAI」ではないとすると、AIは議論の意味を真の意味では理解していない事になります。議論の意味が理解出来ないのに「勝利した」という決定は、単に論理ゲームの記号操作におけるスコア合戦に勝利したように見做せるように思えます(ルールがそうなら仕方ないですが)。
    もしかしたら人間同士の議論ですら、議題そのものの意味が理解出来ていなくても議論が成立してしまう可能性を、数学的に示しているような気がしませんか。というか、言語の本質がそうなのかもしれませんね。
    哲学の話に戻りますが、哲学者自体が哲学の有用性を訴える事にあまり関心が無いというか、有用性を伝える為の適切な言語表現に乏しいというか、色々要因があって哲学自体が一般に誤解されていると思います。自然哲学と呼ばれたものは、今では自然科学と呼ばれ、強力なツールと化しました。心の哲学だった領域の一部は、今では脳科学(認知科学、神経科学)が担うことになりました。元々こうした学問を厳密化する上での土壌を育んで、哲学的問題を良い意味で留保し続けたからこそ人類としてのアカデミックな伝統が受け継がれているのではないでしょうか。お付き合い頂いて感謝しております。

    1. 本稿のテーマを越える、本質的なコメントを頂き、有難うございます。

      世の中では「分かりやすい〜」というものが、あたかも素晴らしいものが如く、持て囃されてます。この「分かりやすさ」は、厳密な議論を犠牲にした胡散臭いものである可能性があるにも関わらずです。

      一方哲学の議論は、厳密さがもたらす「分かりにくさ」と格闘するようなものといえます。元々関心があるか、背景知識があるかしないと、かなりのエネルギーとコストを要する筈です。

      つまり、「分かりやすさ」を持て囃す人々に、「分かりにくさ」と格闘する文化を要求するようなもので、その本質から哲学は世の中に受け入れられ難いものといえます。故に、もし哲学を世に認知させるのであれば、それはまた哲学そのものとは別の方向性の仕事であるといえるでしょう。

      とはいえ、この「分かりにくさ」との格闘は、ますます世間から遠ざけられていく懸念があります。いみじくもご指摘されたように、AI時代が到来し、あたかもブラックボックスが如く、物事を解決する事例が見受けられます。すると、人間が「物事の本質」や「分かりにくさ」と格闘しなくても、AIが解決してくれることになり、いわば「思考放棄」に繋がりかねません。

      情報化時代のスピードの中で、「分かりにくいもの」と、時には時間をかけて、格闘する意義を伝えること。これが哲学のもつ役割の一つなのかもしれません。

      ところで、コメントに登場したトピックとの関連記事があります。

      ・ひろゆきへのツッコミ
      http://txt87.xsrv.jp/2018/10/30/ひろゆき「論破力」は良書なのか?/書籍/

      ・AIの作曲は人間を越えるか?
      http://txt87.xsrv.jp/2019/05/05/ai-②/cinema/

      よかったら、お読み頂けると幸いです。

      長文であっても、熱いコメントは大歓迎です。是非また、当ブログにお立ち寄り下さい。

  3. 有難うございます。恐らくこれ以上の展開は当該の趣旨を逸脱する話となり、管理人様のご本意に添えないと思いますので、一旦この話題は打ち切りたいと思います(というか、私の言いたい事が余すことなく全て伝わった事が管理人様のお返事で良くわかりました)。ご紹介頂いたトピックスについても、音楽やAIなど、私の従来の興味と非常に似通った話題で、楽しく読ませて頂きました。以降各トピックスでお付き合いさせて頂きたいと思いますので宜しくお願い致します。この度はただの通りすがりである私に対し誠に誠実なご回答を賜りまして、多くの勉強をさせて頂きました事を深く感謝致します。

    1. こちらこそ。私もついつい、カッチリとコメントしてしまうので、長いやりとりになってしまいました。

      ところで、もし言いたい事が伝わっていたとすれば、いみじくも本稿に相応しく、ディスカッションが成立したことになります。今回は関心の共有が大きかったのかもしれません。

      当ブログは多ジャンル横断を謳ってますので、何らかの知識不足や至らない点が出るものだと思っています。好き勝手に論じているところもありますので、別トピックでもまた率直にコメントを頂ければ幸いです。

  4. 大変参考になりました。その他のブログも読ませていただきましたが、説得力の中に面白さがあり、(語彙の高さによるものであり馬鹿にしているものでは決してございません、)何度も笑ってしまいました。
    短い感想になってしまいもうしわけございませんが、読ませていただきありがとうございました、とお礼がしたかったのです。
    自分は「大企業」でエンジニアをしており討論は日常茶飯事でしたので、相手の意見を真っ先に反論するのではなく相手の意見に同調しつつ攻撃する術を習得したいと思います。

    1. コメント有難うございます。
      お礼なんて恐縮です。内容が少しでも参考になれば嬉しいです。

      エンジニアをされているそうですが、私もAIに関する記事を書こうとしているところで、これが中々の難産です。アップ出来た際には、もしご興味があればお読み頂けると幸いです。

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